2008年5月18日

あおもり草紙 青春映画館 小屋育ちⅠ

Filed under: 奈良屋通信 — dict @ 12:19 PM

1961年(昭和36年)1月12日津軽で言う“腰きり”と言われるほどの大雪の日に僕は生まれた。生まれた場所は県庁のとなり今の「青い森公園」の場所。といってもエディット・ピアフみたいに路上で生まれたわけではなく(ピアフも噂だけで本当は病院で生まれたらしいけれど)47年前は、ここに青森県立病院が建っていた。僕を身ごもった母は、予定日の正月に一ヶ月も前から、ここの皮膚科部長だった叔父のツテで、商売も、かき入れ時の年末ということもあり、ていの良い島流し的に強制入院させられていた。「薮入り」といわれた昔から、盆と正月は映画館には、うなるような人、人、人、でにぎわっていた時代、僕の“ウチ”奈良屋劇場も、あふれんばかりの人で大盛況だった。当時の奈良屋劇場は邦画の二番館で東映のチャンバラ映画を中心に第二東映、大映、東宝、松竹、日活、新東宝など、なんでもありの雑多な娯楽映画の二番を週代わりで二本立て、三本立てで上映していた。出来立てほやほやの封切り映画を上映する映画館と違い、少しとうがたったかわりに3本立てで安くお得な大衆映画館でとても人気があって、となりカドの県庁の方まで長蛇の列が出来たという。当時は今の一本限りの入れ替え制と違い、流し込みという、いつでも劇場に入れて、いつまでもいられるシステムだったので、こんなかき入れ時は、映画の休憩時にお客さんの顔を覚えておいて、一回り映画が終わると「おめー全部みだべ、出ろ」といった乱暴な、なんとも今では考えられない役回りの人もいたというくらい忙しい時期に出産予定だったのだ。
実際、跡継ぎの誕生に万全を期しての入院でもあったらしいが、母に聞くと一ヶ月にも及ぶ入院生活は退屈で退屈で、しかもよほどこの世に出てきたくなかったのか予定日を大幅に過ぎてからやっと出産して大変だったと事あるごとにこの話を僕は聞かされるはめになる。だから一つ違いの弟の時は、あんなことはもういやだと、さっさと浪岡・下十川の実家に僕もろとも脱出。おかげで産婆さんの手で生まれた弟は、その後も健康優良児で医者の世話には一切かからず自分が医者になった。弟が生まれて程なく第二子に会いに父が下十川にやって来た時、岩木山を望むりんご園の中を走り回って日に焼けて真っ黒になった僕を、まさか自分のせがれとは気がつかず「ずんぶ黒れぇ“なずぐ”わらしだな」と思っていたらしい。(自分の息子忘れるな~!)
僕は物心つく前からすでに映画を見ていた。父も母も昔から年中無休の商売である映画館で毎日忙しく働いていたし自宅も映画館の中にあったので今でいう仕事とプライベートの区別が出来るわけもなく、津軽で言う“なげわらし”で、かまってくれるひまもなく、たくさんいた使用人と一緒にご飯食べ、自転車番しながら遊んでもらったり、ポスター貼りの糊を冬場だったら石炭ストーブの上で小麦粉で作ったり、街の銭湯や床屋さんに“街張り”といったポスターを配るのにくっついていったり、映写室でフィルムの切れッ端集めてカミソリで削ってフィルムセメントでつなげたり、当時の映写機の光源だったカーボンの棒の交換させてもらったりと、自分んちの映画を見ているか、働いているみんなの邪魔をしているか、そうして過ごしていた。映画館のことを昔は芝居小屋からのならわしで“小屋“と呼ぶ。僕と弟はまさしく「小屋育ち」の二人兄弟だった。
親は毎日仕事で忙しいし、父にいたっては映画会社のセールス(営業担当)の接待で、夜遅くまで帰ってこないし、朝はこっちが学校に行っているので、ずっと会わない日が続いたりのすれ違いの家庭環境のうえ、ウチの目の前の通りが夜店通りという商店街なのだがその道を境界にして小学校が違い、学校が違うとそれまで仲良くしていた子とかも疎遠になり、それでなくとも、官庁街の近くで当時から子供があまりいない地域なので学校から帰ってやることといえば場内に入って映画を見ることしかなかった。その頃になると映画も東映が歌右衛門・知恵蔵・錦之助・橋蔵の時代劇から高倉健・鶴田浩二の仁侠映画や大映が勝新太郎の「座頭市」「兵隊やくざ」市川雷蔵の「眠り狂四郎」「陸軍中野学校」や「ガメラ」「大魔神」などの特撮物。東宝の植木等の「日本一シリーズ」、森繁の「社長シリーズ」や「駅前シリーズ」、加山雄三の「若大将シリーズ」など枚挙にいとまがないほどの映画の数々。友達と遊ぶことがなくて寂しいと思う暇がないほど、たくさんの映画が友達だった。でも、そんな映画の中で、特別なものがいくつかある。一つはジイチャンの“みたらあかん指定”「眠り狂四郎」「不良番長」などがこれにあたる。でもかくれて全部見ていた。そして「四谷怪談」「番町皿屋敷」「怪談 累ヶ淵」などのお化け映画。 お盆の時期に必ずやっていた昔の白黒で時たま血の場面なんかだけカラーになるパートカラーといわれた怪談物は大嫌いだった。おっかないのだ。夜おしっこに行けないのだ。映画館は暗い。当たり前だが営業が終わってしめた映画館はもっと暗くてこわい、不気味でさえある。ましてや“お菊さん”なんてやった後の劇場の空気というか・・。しかも隣に行くより便所が遠いという恐ろしい建築環境!おかげで今でもオバケ、ホラーのたぐいは見ないしシネマディクトでは上映しないのだ。
初めて映画館で洋画を見たのは12歳の小学6年生の時。見たのは「ポセイドン・アドベンチャー」場所は奈良屋の裏にあったミラノ座。運転手の倉内さんが映画の終わる日、楽日に駅の貨物にフィルムを出しに行くのに、くっついていき帰りに寄って見たのが最初。といっても途中からで、もう終盤に差しかかっていてジーン・ハックマンが、ぶら下がって火の海に落っこちてしまうシーンから見るという、なんとも微妙な洋画初体験だった。その頃になると友達もできて一緒に良く他の映画館に映画を見に行くようになる。その当時の見た映画を思いつくままに並べて見ても、パニック映画の「タワーリング・インフェルノ」ではモーリン・マクガバンのテーマ曲に魅せられサントラというものを知り。「ソイレント・グリーン」「大地震」ではチャールトン・ヘストンという役者が好きになり「ベンハー」も見てアメリカ映画の壮大さを知る。「サブウェイ・パニック」「ジャガーノート」は今でもそのエピソードがTVや映画に使われる名作だし、違うジャンルではSFの「猿の惑星」シリーズ、ロマンスという言葉が似合う「華麗なるギャッツビー」、今でも困った質問でもある“今までのベスト3“には必ず入る「ゴッドファーザー」、そして甘酸っぱい記憶の「ジェレミー」「小さな恋のメロディ」「卒業」、おっかなかったけれど友達二人で見に行った「エクソシスト」、僕のライフスタイルに多大なる影響を与えた「アメリカン・グラフィティ」その後ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」を作るとは夢にも思わなかった。今でもあの音楽が耳に残る「ジョーズ」「ロッキー」。フランス映画もたくさん見た「個人教授」でナタリー・ドロンに恋をして「暗黒街のふたり」でミムジー・ファーマーにあこがれた。「クレイジーボーイ 金メダル大作戦」「大沈没」などフランス独特のお笑いも好きだった。ポール・マッカートニーの主題歌がロジャー・ムーアーの007よりも記憶に残っている「007死ぬのは奴らだ」。思春期の思い出「エマニエル夫人」弁当持って団体で見に行った友人たち。そしてみんなが熱狂した「燃えよドラゴン」みんな空手の道場に通って新町通りはだしで走ったりしていた。その後のバッタモン・カンフー映画の数々。あけてもくれても映画映画映画。洋画ばかり見ていたわけではなく、「仁義なき戦い」のオープニングのテーマを聞くと、なぜかウチの劇場の朝、開場時の水を打った踊り場を思い出す。「寅さん」と松本清張シリーズは、よく父と二人で見に行った。「砂の器」を一緒に見に行ったときは、泣くのが何か恥ずかしくて嗚咽を抑えるのに必死で具合が悪くなったのを覚えている。二人で映画を見に行く時は青森市内の、どこの映画館でも父が「まいどー」って入って行って、その後ろにひっついてチョコッと頭下げて入っていくのが”ただ見“という感じで、なんとも恥ずかしくていつまでもなれないでいた。一人や友達で行く時は招待券もらっていくので平気だった。そう、お金を払って映画を見たことがなかったのだ。初めてお金を払って見た映画は大学一年生になって初めて一人暮らしをした神奈川県の藤沢で見た「ビッグ・ウエンズデー」。学生一枚って言って学生証見せてお金を払う時ドキドキしたのを今でも覚えている。その後の大学生活でも父が手配してくれた東京の映画館の招待券で映画を見たり試写室で映画を見たりと日々映画は見ていた。そして大学生活も終わり、これからどうしようかと思いながらも漠然と青森に帰ろうと思っていた。青森でずっと待ってくれていた恋人のこと、自分のうちの現状や両親のこと、とりわけ、ほとんど一人で劇場を守っていた母のことなど、宿命とでも言って良いのだろうか小さい時から跡継ぎとして育てられたからなのだろうか、青森に帰るのが、奈良屋に帰るのが当たり前だという気持ちが僕にはあった。父も口には出して言わなかったが、そう思っていたふしがある。大学の研究室の先生や友人たちは、東京に残るものだと思っていたらしく、驚き、なぜだと問うたが「跡継ぎだから」と僕は一言で済ませていた。それでも映画関係やら、いろいろな関係の就職先を世話してくれたが最後にはガンバレと言ってくれた。そして昭和58年大学を卒業して、ボロボロになってピンク映画の小屋になっていた奈良屋劇場に僕は帰ってきた。

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